『白熊ジョン』


こんなに天気がいいのにお客さんが全然入って来ない。
「今日は平日だから仕方ないんじゃない?」
そう言ってジョンはお得意の大あくびをした。
ジョンは五年前僕と同じ日にこの動物園にやって来た。
白熊のジョン。
のんびりマイペースで、でも泳ぎは僕よりすんごく上手で、体も一回り大きい。
ジョンとは毎日いろんなことを話す。
飼育係のアキラ君のことや、その日来た面白いお客さんのことや、前に住んでいたアラスカでの生活のことや。
「あの絵描きのおじさん、今日も何を描こうか迷ってうろうろしてるよ」
ジョンはおじさんを指さしてそう言った。
ベージュのひらひらした大きな帽子に、使いふるしたスケッチブック、いろんな色がたくさん詰まった絵の具箱に、白い面白い形をしたパレット、歩くたびに水がこぼれる黄色いバケツに、筆は平たいのや丸いの小さいのや大きいのまでたくさんそろっている。
「いっつもどこから来てるんだろうね」
「たぶん毎日来るからこの近くに住んでるんじゃない?」
「家族とかいないのかな?いっつもおじさん一人だよね?」
ジョンはいっつもって言葉をよく使う。僕に対しても、
「ロバートはいっつも寝てばかりいる」とか。
「ロバートはいっつも怒ってばかりいる」とか。
くじゃくの目の前でおじさんの足が止まった。今日はくじゃくの絵を描くようだ。毎日するようにゆっくりゆっくり道具の準備を始める。
「くじゃく上手く描けるといいね」
ジョンは楽しそうに言った。
ジョンの楽しそうな顔が僕は何よりも一番好きだ。



ジョンが病気で入院したと聞いたのは次の日の朝のことだった。
飼育係のアキラ君がとても悲しそうな表情で僕に言った。
「明日にでも一緒にお見舞いに行って励ましてあげよう。お花も大好きなお魚もたくさん買ってさ」
こんなに寂しくて、退屈な日が今まであっただろうか。
ジョンのいない動物園はいても全然面白くない。
それどころか、ジョンのことが心配で心配でそわそわする。
明日病院に行ったらたくさん励ましてあげよう。
そして、たくさんいろんなことを話そう。



病室をたずねると、ジョンは大きなベッドに苦しそうに横になっていた。
そんな苦しそうにしているジョンを初めて見た。
僕は悲しさのあまり泣きそうになった。
でも、ここで僕が泣いたらジョンだって余計につらい思いをするだろうなと思った。
僕はジョンを励ましに来たんだ。
ジョンを元気づけないと。
「ジョンの大好きな魚こんなにたくさん持ってきたよ。花だって、ほらキレイでしょ?ジョンがいないと、寂しくてさ。早く良くなって、動物園に戻ってきてね。そしたら、たくさんたくさんいろんなことを話そうよ」
「ありがとう」
涙をうっすら浮かべながらジョンは言った。
「今日だけじゃなくて、これから毎日おいしいお魚やきれいな花を僕のとこに届けに来てくれる?」
「もちろんだよ。ね?アキラ君?」
アキラ君の目が赤くなっている。もらい泣きして、ハンカチで目じりを押さえている。おまけに鼻水まですすって、せっかくのハンサムな顔が台無しになっている。
「アキラ君、花粉症になったの?」
ジョンが笑いながらそう言った。僕もつられて少し笑った。
早く元気になって、この笑顔をもっとたくさん見たいと僕は思った。
でも、それはジョンの最期の笑顔になってしまった。



ジョンが死んでから一週間。
僕はまだ悲しみから立ち直れないでいた。
悲しくて、生きているさえつらいと思った。
毎日毎日ジョンのことを思い出しては、今この場所にジョンがいないのが不思議で不思議でならなかった。



絵描きのおじさんがでっかいリュックサックを担いで、動物園を歩いている。
僕はただそれをぼぅっと眺めていた。
すると、白い小さなポロシャツと黒い半ズボンの格好をしたかわいい男の子が背後からおじさんの手を下から引っ張ってこう言った。
「ねぇ、おじさん。どうしていっつも動物園に来て絵を描いてるの?」
「それは動物を見るととっても幸せな気分になれるからだよ」
「ふーん。だからおじさんはいっつも楽しそうな顔をしてるんだね」
「そうだな。おじさんにとって動物園は宝物みたいなもんだからね」
子供が眠くなったのか口を大きく縦に開いてあくびをした。
やれやれという表情でおじさんが子供の頭を優しくなでた。



※自作のショートショートです。不定期でこれからもアップしていく予定です。